2010年8月20日金曜日

地名に思う

 本紙コミュニティには時々「地名の由来」というコーナーを掲載している。ウェブサイトには「泉北ニュータウンの基礎知識」というコーナーを設けていて、こちらも自然と地名の由来や意味がからんでくる。

 朝日新聞の夕刊に池澤夏樹氏がエッセイを連載しているが、8月4日の掲載分には地名のことが書かれていた。
「地名には由来ないし由緒がほしい」と。
 平成の大合併から戦争の名前にもおよぶ興味深い文章だったが、地名についてはまさにその通りだと思う。誰しも自分の住むところは特別な場所であってほしい。自分の名前も、親から「あなたの名前をつけるときはこんなことを考えてつけたんだよ」という話を聞くとうれしいものだ。自分という存在が特別な存在であるしるしだから。住む場所もそれと同じだと思う。

 古くからある地名はもちろん、ニュータウンの各住区の命名のいきさつを調べると、当時開発に携わった人たちがああでもないこうでもないと知恵を出し合った様子がしのばれる。いくつも候補があって、迷いながら決めたりもしたようだ。できあがった名前はそれほど個性的にみえなくても、その土地にまつわる歴史、そして新しい街として立派に成長してほしいこと、それらをほんのいくつかの文字にこめようと、苦労したのだなあと思う(楽しい作業でもあっただろうが)。

「栂・美木多」という折衷型の駅名は栂地区の住民と美木多地区の住民がお互いに譲らなかったからできたことはよく知られている。当時の様子はよくわからないが、結果的には地理的環境や歴史までがこの中に圧縮されたおもしろい(?)名前になっていると思う。

 最もさびしいのは「あなたの住んでいる街の名前に特に由来や意味はありません」といわれることだ。それはそこに住む人たちの尊厳を無視するものだ、と言ったら大げさだろうか。

 などと、いまだになじめない「南区」という地名のことを考えたが、地名というものは長い歴史をみるとけっこうめまぐるしく変わっていることも事実。そのうちこんなつまらない名前から、別の名前に変わることもあるかもしれない。そのときはぜひ、由来をあつく語れる名前になってほしいものだ。(情報センター・Y)

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